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2018/2/5***意見投稿***ミヒンタレーのマヒンダ様より


<2/6追記>
投稿文を戴いた、ミヒンタレーのマヒンダ様
ありがとうございました。ノス師の予言解読とインスピーションは、確かに不可欠な条件だと思います。朝方に霊夢で目覚め、ある単語なり、文字なりが夢の中で啓示としてあがり、それに心を集中して解く、といったことは、昨年の7月以降かなり頻繁に起こっています。そんな中で、昨年から今年にかけて、全く想定の外にあった解読を戴いて、のけぞったことがありました。(1999年のあの予言詩です。)
きっとインスピレーションで物事の本質に迫ることができうる方が、どんどん増えるのではないかと思います。





ノストラダムス予言解読とインスピーション

弘明様、読者の皆様

ミヒンタレーのマヒンダです。

弘明様のノストラダムス予言新解読素晴らしいです。

「諸世紀」の四行詩の文字を反転させる手法は、インスピレーションでしか考えつかなかったのではないでしょか。

私も、マヤと阿含の合同法要のときに、マヤの守護神「ククル・カーン」の紋様を鏡像反転させた姿と、密教の不動明王「ノウマクサンマンダ・バザラダン・カン」の梵字がシンクロしていることに気づきました。

やはり、マヤの守護神「ククルカーン」と仏教の守護神「不動明王」が同一神だったのです。

私は、20代頃に、インスピレーションを獲られる修行に憧れ、阿含宗開祖御著書「念力」を読み修行を重ねてきました。

そのなかに独鈷の秘印を結ぶ秘法がありました。
  
①「九字の印」「星」「九字の梵字」を右手の独鈷で描く。

②左手で同じ動作を行う。
 
③右手で、逆の方向に九字を切る。

④左手で、普通の方向に九字を切る。

⑤最後に、両手で、つまり左右同時に九字の印、星、梵字を切る訓練を行うのです。

この様に、阿含宗の伝法会では、基本的なご指導を受け、あとは開祖の御著書から秘伝を導きだして、修練を続けていくのです。

阿含の神仏両界の使徒たちへ
聖者に向けて切磋琢磨して参りましょう‼

我、聖師とともにあり!
我、聖衆とともにあり‼ 
 
合掌





弘明様のノストラダムス予言新解読法

弘明様、読者の皆様

ミヒンタレーのマヒンダです。

弘明様のノストラダムス予言「諸世紀」の文字を反転させて解読する手法は、今後、新たなノストラダムス予言解読法として、新境地を切り開くことになるでしょう。

このように、ノストラダムスは未来に起こる直前まで、解読できないのかもしれません。

ノストラダムスは、死後、自らの遺体を立ったまま埋葬させました。
これは、未来に現れるアンゴルモアの大王が出現する聖地を身をもって、世界にひとつしかない場所を指し示したのです。

その聖地とは、東の国、平安の都「平安京」を守護することを願い、立ったまま埋葬を命じた「坂上田村麿呂」の将軍塚ある京都花山だったのです。

この地で開催される「阿含の星まつり」神仏両界大柴燈護摩供こそ、仏陀釈尊からの仏勅、預言者ヨハネからの啓示を成就する、聖霊と火による人類救済のミサとなるのです。

すべての神仏両界の聖霊がより集い、第二の仏陀「阿含開祖」の法力、霊力、神力、大神通力をもって、開祖眞身舎利から全世界に御霊光が放たれ、全人類が霊性に目覚め、世界が平和が実現することを祈ります!

ミカエル・ノストラダムスよ、今年の星まつりの護摩の炎に蘇り、アンゴルモア大王の出現をともに祝福しましょう!

我、聖師とともにあり!

我、聖霊とともにあり!

我、聖衆とともにあり‼

合掌



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  • ミヒンタレーのマヒンダです。
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征夷大将軍「坂上田村麿呂」とアンゴルモア大王復活の使命

弘明様、読者の皆様

ミヒンタレーのマヒンダです。

阿含の星まつりまで、あと5日となりました。

阿含の星まつりが開催される、京都東山区花山阿含宗本山に隣接する将軍塚は「坂上田村麿呂」をお祀りする塚とされています。

その田村麿呂の伝説とアンゴルモア大王復活の秘密を解説します。


征夷大将軍「坂上田村麿呂」に隠された秘密とアンゴルモア大王復活


(1)坂上氏のルーツ
 坂上氏は、4世紀後半に百済から渡来した阿知使主(あちのおみ)を祖とする渡来系の氏族「東漢氏」の一族で、高取町大字観覚寺(かがくじ)小字坂ノ上(坂ノ山ともいわれています)一帯に居住し、坂上氏と称して飛鳥時代から平安時代にかけて武門の氏族として発展していきました。姓は始め直(あたい)、682年に連(むらじ)、685年に忌寸(いみき)、764年に大忌寸、785年に大宿禰(おおすくね)と改姓しています。
 
当時の日本人は、彼渡来人を異民族あるいは異人種として白い眼でみたり、まして敵視するようなことはありませんでした。ひとつには彼らの進んだ技術・文化に対して、素直な敬意を抱き、また、当時の日本人の間には「まれびと信仰」つまり、季節ごとに外から来訪する神や人は、幸せをもたらすものとして歓迎するという信仰風習がありました。そうした社会風習を背景に渡来人たちがその地に土着し、その子孫が発展していきました。
坂上氏が歴史の表舞台に現れるのは、壬申の乱で東漢氏一族がこぞって大海人皇子(吉野朝廷)に味方し、そのなかでも坂上氏の軍事的活躍はめざましく、この功により坂上氏一族は昇進し、田村麻呂の祖先である坂上老(おゆ)は直広壱(ちょくこういつ、正四位下に相当)の位を与えられました。
  
(2)「最初の征夷大将軍」
田村麻呂の活躍
 
苅田麻呂を父に、犬養を祖父にもつ田村麻呂は、武門の子弟として23歳で近衛将監、30歳で近衛少将となりました。

789年大将軍紀古佐美率いる朝廷軍は、蝦夷の総帥阿弖流為の率いる蝦夷軍に大敗を帰しました。

 田村麻呂は791年征夷大使大伴弟麻呂の副使になり、第二次征討の準備を任されました。

田村麻呂は兵士の質や彼らが所持する武器を調査しました。兵士は大部分が農民の子弟で、生活苦をあまりにも強く背負っている者ばかりでありました。

畿内をはじめ諸国の農民の生活は、旱魃や疫病が流行り、そして租庸調の税金が重くのし掛かり、まことにひどい状態でありました。

征夷のため武器や食料を調達することを命ぜられても、とても消化できる状態ではありませんでした。

 田村麻呂は、皮製の甲(よろい)の製造については、富裕な農民層と五位以上の貴族に製造して差し出させるよう、またこれまでの軍団制である一般農民からの徴兵にかわって、郡司の子弟を選んで健児(こんでん)と名づけ、彼らに諸国の役所や武器庫を守らせる健児制(こんでんせい)に切り替える大幅な改革案を上奏し裁可されました。

陸奥と出羽だけは、蝦夷との交戦を目前に控えているため従来の軍団制をそのまま存続しましたが、兵士の質は以前より改善され、第2次征討はそれなりの成果をあげました。

また、短期間の戦闘であったにもかかわらずかなりの兵士が逃亡して捕えられましたが、従前であると死罪になるところを、陸奥国に流罪する名目で、柵戸(さくこ、柵を守る農民兵)とすることにより彼らの命を救いました。田村麻呂はこの功績により従四位下に昇進しました。

 翌796年陸奥・出羽按察使(あぜち、国司の治績や諸国の民情の巡察する官吏)兼陸奥守兼鎮守府将軍に任命され、陸奥における軍事行政上の全権力を掌握することになりました。

これは、第3次征討の前ぶれの人事であり、田村麻呂はただちに多賀城に赴任して、来るべき第3次征討に備え、兵員の確保や糧食の調達を図る一方で、陸奥の開拓や民生の安定化をはかるため稲作や養蚕の普及に力をいれました。

伊勢・三河など六カ国から養蚕技術をもつ女性ををそれぞれ2名づつ選んで陸奥に派遣し、また武蔵・常陸など8カ国の農民9千人を伊治城に派遣し、平時は土地の開墾と稲作の指導を行わせ、事あるときは武装し兵士として戦う屯田兵のような性質をもつ農民派遣を行い、みちのくの農村もしだいに活気を示すようになってきました。

 797年さらに最初の征夷大将軍に任命され四つの要職を兼ねて陸奥の地に臨むことになりました。しかし、田村麻呂は戦闘の準備よりも行政面や民生への配慮に重点を置き、蝦夷を討つにあたって、膨大な軍隊を動員して、ただがむしゃらに攻めこむのではなく、治安を回復し産業を盛んにし、民生を安定することに重点をおきました。

蝦夷に対しても、むやみやたらに敵視するのではなく、帰順してくる者に対しては、土地を与え生活を保証し、また律令農民との間の交易も認めました。

ただし、抵抗する蝦夷に対しては、断固として容赦のない態度で臨み、いわば恩威並びに施す策をとりました。それはまた国家の兵士の損害を最小限にくいとめることに役立ち、部下の信望を多く集めることにもなりました。

 801年従四位上征夷大将軍兼近衛権中将兼陸奥出羽按察使兼陸奥守兼鎮守府将軍となり、桓武天皇から節刀(天皇の権限を代行するしるしとしての刀)を受け、あらためて全軍の指揮を委ねられました。

俘囚軍を大量に動員し、巧みに作戦に使用し、また蝦夷の帰順者があいつぎ、胆沢地方(いざわ)を越えて閉伊地方(へい、岩手県北部)まで兵を進め、胆沢地方を律令国家の掌中に収めるという第3次征討の目的は、田村麻呂の努力により達成することができました。この武功により従四位上から従三位にと目ざましい昇進をとげました。

 翌年には造胆沢城使となり、北辺の守りを固め、胆沢地方を開拓し、稲作の普及に努めるなか、蝦夷の族長阿弖流為が投降してくるという画期的な成果をあげました。

田村麻呂は彼の助命を請願しましたが受け入れられず、処刑されました。大和朝廷から続いていた蝦夷征討も事実上ここに結末を向かえました。

 田村麻呂は、二度の征討においてすぐれた武勲を立てただけでなく、帰降蝦夷の取扱いに誠意をもってあたった人物として、蝦夷や俘囚から大きな信頼を寄せられ、また俘囚でも戦功のあった者は昇進叙位を取り計らい、また公民となろうとして改姓を願い出る者に対してはそれを認めるなど、蝦夷の身分的差別解消にも配慮しました。

こうして、田村麻呂は東北の人々にも、偉大な将軍として神格化され後々まで尊崇されるようになりました。
 
805年参議の職に任ぜられました。参議は国政に直接参加する職であり、現在における内閣を構成する大臣にあたり、坂上一族では彼だけです。やがて大納言右近衛大将にまで昇進しました。

811年大納言正三位右近衛大将兵部卿坂上田村麻呂は54歳で生涯を閉じました。嵯峨天皇は一日服喪し、従二位を追贈しました。この日、勅命により田村麻呂は甲冑武器を帯びた立姿で葬られました。

『田邑麻呂伝記』には「大将軍は身の丈5尺8寸(約176cm)、胸の厚さ1尺2寸(36cm)の堂々とした姿である。目は鷹の蒼い眸に似て、鬢は黄金の糸を繋いだように光っている。体は重い時は201斤、軽いときには64斤。行動は機に応じて機敏であった。怒って眼をめぐらせば猛獣も忽ち死ぬほどだが、笑って眉を緩めれば稚児もすぐ懐に入るようであった」という。

『田村麻呂薨伝』には「赤ら顔で黄金の髭のある容貌で、人には負けない力を持ち、将帥の力量があった」という

これらの「坂上田村麿呂」の業績を分析していくと、坂上一族に託された使命を感じます。

未来に、第一の仏陀、第二の仏陀が復活する聖地を、東の国に準備することを、釈迦族の末裔に託されたのではないでしょうか? 

ネパールでは釈迦を「シャーキャ」と発音しますが、少し西のガンダーラ地方では、「サキャ」、イランですと「サカ」となります。古代イランのペルシア語で「サカ族」という民族が存在し、釈迦族は、この「サカ族」ではないかと言われています。

坂上一族は、釈迦族の末裔で、未来に現れる仏陀の復活する聖地を準備することを、仏陀釈尊から託された一族だったのではないでしょうか。

坂上田村麿呂の暗号解読

「坂」「上」「田」「邑」

「シャカ」「カミ」「○」「┼」「ムラ」

「仏陀釈尊」「神」「太陽」「十字架」「国」

『仏陀釈尊の法と太陽の法を冥合して完成させた、日の国が保つ人類救済の神仏両界の秘法で、世界を統べる大王が復活する聖地』

阿含宗開祖は、インド聖地、祇園精舎「サヘート・マヘート」で仏陀釈尊から、「この地を東の国に移せ」と仏勅を受けられ、京都東山花山に新サヘート・マヘートが建立されたのです。
そして、そこで開催される「阿含の星まつり」神仏両界大柴燈護摩供で、第一の仏陀、第二仏陀が復活されたのです。

田村麿呂は、平安京の鬼門となる東北に、北斗七星に配列した寺社を建立し、平安京の安穏を祈られ、自らの遺体を立ったまま埋葬させ、平安京の守護神となられました。

田村麿呂も、アンゴルモア大王復活の準備の使命を託されていたひとりかもしれません。

私も、子孫の末裔として使命を果たすことをお誓い致します。

我、聖師とともに!

合掌






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